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2009年 07月 29日
シカンは神政国家であったと考えられています。たとえるなら、中世ヨーロッパのバチカン。ローマ教皇を頂点とする東・西方カトリック教会(Roman Catholicism)の総本山であり、19世紀後半にイタリア王国が成立するまで(各国の王から寄進・保護された)教皇領を持っていたように、世俗的な権力基盤にもとづいていたという点でシカンと似ているのです。
シカンも「ランバイェケ複合(Lambayeque Complex)」と呼ばれる、4つの河谷(モトゥペ、ラ・レチェ、ランバイェケ、サーニャ)からなる地域を核として、北はピウラ、南はモチェ谷にまでその領土を広げていました。ランバイェケ複合は現在のペルーの総耕地面積の約1/3(だったかな?)を占めており、傾斜が緩やかで幅の広い三角州は灌漑農業に適しています。また、ペルー北海岸は世界有数の漁場の一つでもあり、一年を通して豊富な海産物に恵まれています。シカンの繁栄は豊かな農・海産物に支えられた自足性にもとづくものであったのでしょう。シカンの後にこの地を支配したチムーも、自治権を認める代わりに年貢のようなものを納めさせていたようです。 宗教的な影響範囲はさらに広かったようで、シカン王や神をモチーフにした品々が、北はコロンビア南端(ラ・トリニータ)、南はリマ周辺まで分布しています。また、海岸だけでなく、北部山地からもシカンの王を象った黒色土器が出土しています。 神政国家シカンの繁栄基盤は農業や漁業だけではありませんでした。高度な冶金技術を誇り、トゥンバガと呼ばれる金・銀・銅の合金や、砒素青銅を大量に製造していました。たとえば、合金には「色揚げ」という酸を使った化学処理を施すことによって表面の金の純度を上げ、見た目を金のように変えながらも強度を上げるということを行っていました。また、青銅作りには旧大陸やペルー南部で使用された錫ではなく、砒素を使用していました。これをナイペと呼ばれる、5種類の大きさの均一な原始貨幣のようなものに加工し、それらを金属の供給地を持たない周辺地域の特産物(コロンビア産のエメラルド、エクアドル産のウミギク貝やイモ貝など)と交換することによって貿易を行っていたのです。金銀を貨幣に使用し、青銅や鉄を武器に使用していた旧大陸とは少々異なります。 では、そのシカンの宗教とはどのようなものだったのか。まず、支配者層を中心とした祖先崇拝信仰が挙げられます。1991年から2008年の発掘は、ワカ・ロロの周り(と一部その下)に作られた墓地はあらかじめ詳細に設計されていたことを明らかにしました。ワカ・ロロ自体も、3段階の建築フェーズを経て、今の姿になりました。ワカの頂上には神殿が築かれ、そこで追悼儀礼などを行ったようです。ただし、その上部構造へのアクセスは細長い傾斜路からだけに限られています。頂上に上れたのは恐らく一部の権力者たちだけだったのでしょう。また、追悼に関連した儀礼活動はワカの頂上だけではなく、大広場と呼ばれる、ワカ・ロロを含む大型建築によって囲まれた場所でも行われていたようです。1985年および2008年の発掘で、饗宴の跡や調理に使ったと思われる大きな竈などが見つかっています。支配者層にしか手に入らなかった辰砂や貝殻などが見つかっていることから、支配者層が関与していたことは間違いありません。 しかし現在の宗教を見れば明らかなように、祖先崇拝という概念をハッキリと持っている宗教もあれば、中心的な教義とは別の要素の一つとしてその体系に含んでいるモノもあります。「シカンの宗教」という広い括りで見た場合、支配者層による祖先信仰以外にどのようなものが含まれていたのでしょうか。つまり、シカンの宗教とはどのようなものだったのか。また、なぜ祖先崇拝という、本来排他的な性格を持つものが一般の人々によって支えられていたのか。 この続きは8/28の講演で。
by gocito
| 2009-07-29 07:18
| 学会・研究発表
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